白の領域のスケッチ

  いにしえの翻訳者、その修士論の実演

 

 

 真っ白な部屋に、木製の丸椅子がひとつ。みかげはそこに腰かけていた。部屋には窓がない。扉もない。真っ白なように見えるのは、色相的な無を色づけるそれ以外の言葉を知らないからで、それは脳の錯覚のようなものだ。言葉は概念。言葉とは概念。言葉とは概念を形づけるもの。みかげは軽くうなずき、目を伏せる。大丈夫、記憶に齟齬はない。

 部屋には窓も扉もなく、座っている今のところ、壁があるのかも不明である。立方体めいた箱の内部なのか、球のような空間の内側なのかもわからない。だが、察するにはとにかく、ある程度の狭さの部屋のようである。椅子は三脚で平衡を保っているが、みかげの足は宙に投げ下ろされている。小さな子どもの頃のように、届かない足をようように動かせる。バタ足だって平泳ぎだってできる。足で宙に文字をなぞることも。それらが推進力になるような、水中様の空間を想定・認知・構築したっていい。……焦るな、べつにやり方はいくらでもある。

 限りない自由が広がっている。

 それでもここまで認識するのに、いろいろな過去の制約を持ち出さざるを得なかった。真っ白だとか。なんとなくの部屋の大きさだとか。感覚はだませない。これはきっと、次の何年かの課題。もしくはもっと遠大な、魔術師人生における命題。

 とりあえず、ぽーん、と、音を投げる。右耳の上の際あたりから、水平にななめ右前のほうへ、ビブラフォンのような化繊系の音の玉を投げる。

 右手を軽くからだの前につきだして、中指を、ぽーん、と、下ろしてみる。架空の鍵盤が叩かれて音が部屋に響いた。本当をいえばこの段階では、みかげが右脳外縁の耳のあたりで放った音が、みかげの意識の意図する直線曲線にのって、どこかの壁で跳ね返ってブーメランのように戻ってきたものが、振り下ろされたみかげの中指に捕まえられているに過ぎない。自己の意識と他者たる前提条件、受験者と被験会場、自分と壁をつなぐ、ただの手品。ただの手品で、空間に鍵盤は現れる。

 そのままぽーん、ぽーん、と音を重ね、三和音を奏でてみせる。記憶どおり、ふつうとまったくずれのない三和音。便宜上の名前がドミソ。続けてドファラ。親指を下らせてシレソ、シファソ、最後にドミソの定位置。

 もう一度ドミソ。三音の感覚を、少しずつ広げていったって構わない。ギタリストが弦をきゅっと巻くよりも簡単に、今はその音ひとつひとつを揺さぶれる。あるいは金管楽器のビブラートのように、町中の酔っぱらいに歌わせた「ドレミのうた」のように。

 楽器ひとつでっちあげるのにも、自由はつきまとう。

 みかげは少しためらってから、結局は何の変哲もない、二十世紀型の黒塗りアップライトピアノを想定した。いろいろと四方八方へ枝葉のように広がっていく思考が、いくらでもタチの悪いいたずらを思いつく。聴覚理論系の指導員を混乱に陥れる方法はいくらでも、徹底的破壊力を持った兵器のような実論を思いつく。宗教音楽になじんだ人間に、人間の精神の不安を掻き立てる意図でつくられた交響曲をあてつける、電子系の尖端過多な音符を自乗しつづけた舞踏サウンドをあてつける、そういった時代性の暴力。

 文明線上の時代性の暴力。しかしそこにはある一定の臨界点があって、過去から未来へと時代が世紀年表の順に流れていくことには、みかげは個人的体験から異論を持っている。可逆性について。過去からの逆襲について。……ここまで思考を広げてしまったけりをつけるため、みかげは即興の小曲を弾いてお茶をにごす。

「春」。敢えて既存のドレミファソラシとその黒鍵に、陰・陽を割りあてて二進数の数とし、和音を十指で運奏可能な限界まで展開していく。その無数の和音の組み合わせから、王道のコード進行譜をなぞったものを奏でていく。三月の早い桜と、五月のたわわなチェリーの桜では色あいがなにもかも違うように、名前を同じく採譜される和音にもさまざまな感情の幅がある。奏者が感覚でゆらし奏でるそういった感情を、即興で計算機に叩き込んだようなでたらめの数字論、陰・陽の二進数で再現させる指示を追従させておく。数学的なオートマタによる解読を一蹴するための、あまりに幼稚な未来人の手品。振り切れた科学の世紀を越えていく、感性の機械いじり。音楽と数学の融合に辿り着いた二十世紀の文学の理論は、今では時空的な制約をもっともやすやすと越えていく音楽として、ある世紀に留まった認識を持つ者の脳を破壊する、兵器様のものとして応用が可能だ。時代は進みすぎた。それらは純粋に、芸術のみに昇華されるべきであった。それがその生み手の者の、文学者的な願いであったはずなのに。脳内のニューロンを駆ける思考は、さいごに感情に結びついてやっと、立ち止まるための重りを得る。世紀の暮れ、文明の流れの暮れ。そこからまた花開いていく、昔々忘れられた人々の「春」。一気に芽吹いた陽が陰をことごとく織りこんでいく百十八小節、六分ちょうどのイチレイレイ、イチイチイチレイ。そんな流れで、曲を弾き終える。

 黒塗りだったはずのアップライトピアノの外箱は、緑の鉄柵をツタのように絡めて造形した網細工のものへと変わっていた。色とりどりの春の花々が、桜ともクロッカスともつかず、鉄の造花からみずみずしい生花へのグラデーション様の変遷の過程をたたえて、柵のまわりに溢れている。「春」と「ピアノ」にのせて「時」と「音」、あるいは「数」の進化をたたえた草花のワゴン。これ以上の構築はいらない。あとはこのピアノ楽器が、ひとりでに季節を奏でていく。

 前世紀のオートマタによる問いを、ブラックホールのように呑み込む計算機を搭載したロールピアノ。その計算機の性格の部分をになう部分はモナリザのように微笑み、オートマタに対してソクラテス様の態度でもって応対する。だけどそんな、前世紀の中等科学校の歴史の教科書がアクセスできるレベルの集合イメージが何になるだろう。目くらましである。ピアノはピアノで、あるいは奏者と楽器のつなぎ目の箱として、頭脳による追従など捨て置いて時を紡ぐことができる。

 少なくともあの音楽理論の指導員は、今の即興曲とこの楽器の組成の考察に煮詰まって脱落したと考えていいだろう。本当は単に五感が音楽の波や色あいにあてられたとも気づかず、こちらの脳内の電子経路をトレースし論理思考による想定・認知・構築を阻まんと躍起になっているうちに自滅したはずだ。

 もともとみかげ自身、理論だか論理だかオートマタ的な理解を用いた過去の世紀の解読に、大きな疑問をかかえていた。それはもはや気持ちの問題から発したような感情的な懐疑の念で、そういった解読法を強いる先駆者の指導員には、ほとんど本能的な軽蔑をおぼえてしまうほどで、みかげはそんな自身に困惑した。それはみかげの出自が、彼らの身を置く世紀的なもの、文明史的なものの裏側の流れ、暗闇と影の違いをめぐる座標の揺れといった特殊な領域によるものであることに由来したようだったが、そんな事情に思い至ったのはごく最近、この卒業試験も間近になった、修士時代の終わりになってのことである。

 はっきり言えば前世紀的なその指導員たちは、今日みかげが置かれているこの出来事をこう呼称する。

 

既存の科学的概念を超越して展開する構築法(時空間認識のための新たな構築法)を模索および実演するための実証試験[修士課程]

 

 前世紀の文明が、概念、概念、という方向へ人間の脳と意識を開拓し続けたために、言葉はからまってこんなふうな念仏言語になってしまった。

 もっと古い、文明史に埋もれていた人間存在の運用法をどうにかそこまでの時代の言葉に翻訳するために、多大な概念の応用が必要になった。逆に言えば、その言葉による認識の複雑さが、オートマタかぶれの人間たちに忘れ去られ、いにしえに置かれたままのその法の封印を固くしていた。

 その法を、魔法と呼ぶ。

 いにしえにおけるその「あたりまえ」の法は、人間による外部世界の認識そのものが塗り替えられすぎた時空における復権のために、膨大な概念による説明が必要となった。論理を組み込まれた、その時代までの言葉による認識や再構築を経ない限り、人間が物理的に人生のなかで実演しうる平易さで法が機能する足場のコードは存在しなかったのだ。

 その足場のコードを構築する、オートマタ的世界へのいにしえの法の翻訳者。夢想的な感情をかきたてるスパイスを付随させて、その翻訳者たちは、魔術師という言葉で定義された。

 魔術師、その定義。

 魔法、その定義。

 それを抜き出して再度同じように引用説明するのに、もう、こうたくさんの時間が流れてしまっては、たとえばこの目の前のピアノが奏でていく音楽にすら認識は追いつけない。

 過去から遡るような、論理運用法の逆さ読み。それをオートマタと、オートマタによって既に構築され終えた世界に理解させる試み。

 修士程度の「魔術師」の認定を得るため、あるいは感情的に、ここ数年の日々で対面を強いられた特定の先駆者たちを「ぎゃふんといわせる」ために、みかげはこれからの実演演目を考える。難しいものだ。そっちから考えては、難しいものだ。だって、あのオートマタみたいな言語、漢語や概念語と助動詞の組み合わせしか口にしない指導員たちが「ぎゃふん」なんて言葉で発するしかない気持ちを得る事態があるとしたら、そんなのはもう、魔法にかかった、としか言いようがないではないか。

 

 その日、修士論の実演の場において、学院で各理論を担当していた教授級指導員七名が失踪する、という怪事件が起きた。指導員七名の失踪はとある院生の実演中に起こったと見られるのだが、外部の捜査者からするとそれは失踪というよりは蒸発と見受けられる事態であり、ある種の密室事件であり、あるいは――その世紀にはじまる「魔術師」の時代をとおして名高い完全犯罪の、はじまりとなる事件であった。

 

「ふう……」

 木造回廊の図書館で、しずみは冊子を閉じて息をはく。時刻はとうに夕暮れをまわっていた。短いレポートだったが、理解して読むのには多大な集中を要した。そういえば「翻訳者」のあたりを読んでいるあいだに、司書の女性がカーテンを閉めていた気がする。絨毯のような重いカーテン。図書館は古い。この学院の創建前からあったという。ということは、このレポートの謳うみかげという学生も――果たしてその者がしずみの想像する限りの学生であったのなら――この図書館に、この空間に立ち入ったことだろう。

「みかげ……、御影、MIKAGEね」

 その響きはどれもが、伝説や超越の者としてのかの者の人生を隠喩する。みかげという魔術師は、このレポートにある事件ののち、膨大な魔法理論を残し、歴史から姿を消した。「御影」というその響きのコードに、影だの陰だのの閾の値を設定して。

 かの偉大な魔術師は、どこへ消えてしまったのだろう。

 しずみはあるいはそれだけを探究の目標として、魔術師の学院の門を叩いて、ここにいる。

「みかげは影の世界へと、階段を降りていった。

 それからのみかげの消息を、誰もしらない」

 

 気づいたら、そういうことになっていたのだ。

 数えで十八になるしずみには、十代のある時期の記憶がない。そしてそれ以前の幼少の記憶は、まるで前世、べつの世界で過ごした思い出や物語の追想であるかのように、しずみが身を置く現実からかけ離れた印象に満ちている。

 その幼少の世界で、しずみのすぐそばに、いつも魔術師のみかげはいた。その顔立ちも声色も、しずみはぼんやりと知っている。知っている以上に、心深くに刻まれているその人を、しずみは来世でだって探し求めることを知っている。

 ふたつの同じような、兄弟のような、姉妹のような、わかちがたく結びついた座標点を持つ、もうひとり。かの岸とこちらの岸で、色も音も空や海の味わいも、対称のように同じ星座を描く座標点を持つ、もうひとり。

 そのもうひとりは「みかげ」という名で、しずみが身を置いているこの現実においては、学院史、あるいは魔法史、もっと言えば歴史に名高い、しかし且つその存在を秘匿された、伝説的魔術犯罪を完遂した魔術師であった。

 その存在は記録上ではあいまいにぼかされている。もしかすると記録が録れなかった、残らなかった、残せなかったのかもしれない。とにかくみかげという学生は、在籍証明以外の記録がない。学士過程の専攻や論文の記録はおろか、何年前の学生なのかすらもわからない。入学年度、卒業年度、その「事件」を起こした年度も年代単位で不明――そんなことがあるだろうか。おそらくは高度なアクセスコードを指定された情報なのだろう。

 記憶のなかで、夢のなかで。

 あんなに近くに、みかげはいる。

 そしてそういった領域で認識する、白昼夢を重ねあわせたような現実に、みかげはいる。銀河とか天使の者たちの歌声がさらさらと聴こえるような、そんな心持ちが何日も続く日々に、みかげはいる。シータ波の脳が感じうる六次元の、前後軸を負のほうへ辿ってはじめて辿り着く、水底の都市のようなふるい過去に沈められたレイヤー。そこにみかげはいる。

「会いたいなぁ」

テキスト ボックス: Tuesday, December 15, 2015 もうこの図書館で何度つぶやいたか知れないその言葉を、しずみは虚空に投げかけて、その日の調べものを終えた。《序》