Alter Sphere 00

《序》

 

 

 ここはどこだろう。暗くはない。だが光源がわからない。光が充満しては拡散して、万華鏡の中にいるようだ。

 

 ソフィアはまぶたを閉じたり開いたりをしながら、自分の体が宙空を泳ぐに任せていた。たゆたう意識は、しかし少しずつここがどこであるのかを認識しつつあった。まるで長い夢から覚めていくようにゆっくりと、鈍い頭痛をともなって。

 そうだ、私は追い出されたんだ、たくさんの兄さんと姉さんのいる世界から。ソフィアは思い返した。そこは「天空の世界」。ソフィアがそこを追い出される直前にはじめて理解した概念、世界の呼び名がそれだった。自分のいる世界は天空にある。兄さん姉さんたちは“ただの”人間ではなく「神々の眷属」と呼ばれる存在である。末娘の自分もまた然り。鍋にかけた湯が沸騰してあふれ出してくるように、ソフィアは「自分」というものが膨張するのを感じた。ソフィアの意識は駆り立てられ、そして肥大していった。それがあるところでぱちんと弾けたあと、自分はこの万華鏡のような世界に迷い込んでしまった。ソフィアはそう解釈した。

 

 そういうことを考えている間にも、ずいぶんと時間が経ったように思われた。

 

 万華鏡が回されるように、光の波模様が明滅し移ろってゆく空間で、ソフィアは覚醒と、夢幻を体感する時間を繰り返していた。そんな中、呼びかけてくる声が聞こえた。聞き慣れたような、懐かしい感じのする男の声だった。しかしそれが誰のものか思い至るほどにはソフィアの意識は覚めてはいなかった。

「ソフィア」

 声はソフィアの脳内で反響しながら語りだした。

「愚かなソフィア、君はある罪を犯した。君はそのためにそこに幽閉されている。もうすぐ君は目を覚ますが、そこから見えるのは世界が移ろっていく様だけだ。君はそこに一万年、幽閉されることになっている」

 ――君はそこに一万年、幽閉されることになっている。

 懐かしい誰か、それは兄だろうか、それとももっと別の父、おじ、恋人だったろうか、その声で語られたその最後の宣告。水面に広がった波紋のような残響が治まりきるまで、ソフィアは考えていた。声も黙っていた。しかしソフィアの頭の中は、周りの空間を反転させて壁紙にしたように不確かにぐるぐると回転していくだけだった。ソフィアには、声が告げようとしている自分の立場というものはよく呑み込めなかった。

 別に長い間ここにいることに、強い拒絶反応を起こしそうな衝動も焦りも、脳と体には見当たらない。ここに来てから何日、何百日、あるいは何年が経ったのかも曖昧に感じる。とはいえ一万年がどれほどの歳月かはわからない。そもそもここにいる意味も、はっきりとは呑み込めない。先ほど――それはどれほどの「先ほど」だったか、声は「罪」と言っただろうか。

 渦巻くような思考が空間を回遊し、そしてそれが完全に晴れてしまうと、待っていたかのような息づかいとともに声が続いた。

 

「ソフィア、君にチャンスをあげよう。君はその『この世の神殿』を出て、人間の世界を見て回るといい。それはあまりに酷な試練かもしれない。あるいは君が望んだことの実現かもしれない。我々には君を助ける術がない、君の罪を“自由を夢見た”と言い換える以外には」

 声は黙った。何か重大なことを告げるのをためらっているように。あるいはソフィアには反芻できない、ソフィアの罪とやらを思い返しているのかもしれなかった。

 

「私は、自由になるの?」

 

 ソフィアは声に出して問うた。久しぶりに出す自分の声は曖昧に揺れていた。男の声は答えた。

「それが君にとっての自由になるかはわからない。君は追放された身だ。わかっているね。君はひとりぼっちで生きていかねばならないのかもしれない。憂鬱で砂じみた世界で。覚悟はいいね」

 何の覚悟かわからない、とソフィアはぼんやりと思った。思考は以前よりずっと透明になってきて、今なら言葉を流暢に話すこともできそうだった。しかししかるべき語句は見当たらなかった。ソフィアは今、ただ空間をたゆたうだけの空っぽの存在だった。

「ソフィア」

 声が呼びかける。

「君にひとつ名前を送る。その名前を追ってみるといい。それは君が手にした大切な名前だというから」

 ソフィアは顔を上げた。

 空間が急に白み始めた。わいん、わいんとうなるように音波の風が吹き抜けていった。風の来るほうから、朝焼け色の空と、その空には似つかない、うねるような雲の群れがやってきてソフィアを巻き込んでいった。うなる風の群に身を縮めて立つソフィアの、その脳裏に追いすがるように声は告げた。

「その名前はカインという。カイン――君はその名前を持ち帰ってきた。それは君が守るべき宝なのか、それとも君を堕落させた罪の証なのか、愚かなソフィア、愛するソフィア――」

 声はだんだんとこだまとなって消えていった。

 ソフィアはしっかりと地を踏みしめた。

 周りには、青みを帯びた空気の中、神殿の回廊が続いていた。

 

2015/06/05 The ‘U’lter_Blue World to be continued…